俳優としてご活躍されている中山翔貴さん。
タレントの中山秀征さんと、元宝塚歌劇団娘役の白城あやかさん夫妻の長男です。
この記事では、中山翔貴さんの出身大学や高校などの学歴について調査してまとめていきます。
中山翔貴のwikiプロフィール

- 本名:中山翔貴(なかやま しょうき)
- 生年月日:1999年3月18日
- 出身地:東京都
- 身長:180cm
- 血液型:O型
- 趣味:野球観戦、スポーツ全般
- 特技:野球(アンダースロー投法)、体力づくり
中山翔貴の学歴(高校・大学)
中山翔貴さんの学歴を調べてみたところ、以下の学校を卒業していることがわかりました。
- 出身大学は「青山学院大学経営学部」
- 出身高校は「青山学院高等部」
- 出身中学は「青山学院中等部」
- 出身小学校は「青山学院初等部」
学生時代のエピソードとあわせて見ていきましょう!
出身大学は「青山学院大学経営学部」

- 青山学院大学
- 〒150-8366 東京都渋谷区渋谷4丁目4−25
- 偏差値:57.5~62.5(経営学部)
青山学院大学野球部での挑戦とアンダースロー転向

中山翔貴さんは青山学院大学経営学部に進学し、硬式野球部に所属していました。
入部当初から頭角を現していましたが、高校時代からの腰痛が再発し、大学1年の夏に投球フォームをオーバースローからアンダースローへ転向。
千葉ロッテ・渡辺俊介投手や西武・牧田和久投手の動画を見ながら独学でフォームを研究したといいます。
4年生のときには東都2部リーグで優勝、7年ぶりの1部昇格に貢献。
しかし、思うようにプレーできなくなるイップスも経験し、プロ野球選手の夢を断念せざるを得なかったと語っています。
大学時代は「野球に全てをかけた青春だった」と振り返る姿が印象的です。
アナウンサー試験と芸能界への決意

大学卒業後、中山さんはキー局のアナウンサー試験にも挑戦。
しかし残念ながら採用には至りませんでした。
人前に立つ仕事への憧れは強く、次第に「俳優として芸能界で勝負したい」と思うようになったといいます。
両親に芸能界入りの意思を伝えた際、父・中山秀征さんは「誠実で謙虚に、一生懸命仕事に取り組むように」と助言。
母・白城あやかさんからは「簡単に諦めないで」と背中を押されました。
両親の支えを受けて、2021年にワタナベエンターテインメントに所属し、約1年間基礎から演技や発声を学んだそうです。
俳優デビューと新たな夢へのスタート

中山翔貴さんは、2022年4月、テレビ東京系「しろめし修行僧」で俳優デビューを果たしました。
大学まで16年間続けた野球人生から一転、芸能界で新たなスタートを切りました。
「野球で培った粘り強さや努力する姿勢は、俳優としても必ず役立つ」
と語っており、現場でも真摯に役作りに向き合う姿勢が評価されています。
父の背中を追いかけつつも、自分らしい道を切り拓いていく覚悟。今後のさらなる飛躍が期待される存在です。
出身高校は「青山学院高等部」

- 青山学院高等部
- 〒150-0002 東京都渋谷区渋谷4丁目4−25
- 偏差値:72
中山翔貴さんは、青山学院高等部に内部進学しています。
高校時代の野球漬けの日々

中山翔貴さんの高校時代は、野球部のエースピッチャーとして活躍し、まさに野球一色の毎日でした。
朝は5時に起床し、1時間かけてグラウンドへ向かい、朝練は6時半から。
夜10時まで練習が続き、帰宅は日付が変わることも珍しくなかったそうです。
1日300球の投球や1時間の縄跳びなど、一般の人が驚くようなハードなトレーニングを日々こなしていました。
そんな生活が7年間近く続いたと語っています。
高校時代の体重は約80キロで、下半身を鍛えるためにスクワットやデッドリフトなども徹底していたとのこと。
彼自身「野球は下半身が重要」と語り、ひたむきな努力を続けていました。
苦い夏、忘れられない敗戦

青山学院高校2年夏、東東京大会ベスト16進出をかけた篠崎高校との4回戦。
中山さんは7回から3番手で登板し、8回裏に相手校の4番打者と対戦しました。
真ん中高めに投じた1球は、右中間スタンドへ…。
「球が自分から離れた瞬間に『あ、打たれる』と感じました」
引用元:日刊スポーツ
と当時を振り返り、
「大好きな先輩たちだったので、負けさせてしまったのが悔しかった」
引用元:日刊スポーツ
と語っています。
甲子園には届かなかったものの、真剣勝負の重みや敗北の悔しさが今も胸に残っていると明かしています。
父の教えと、あきらめない心

中山翔貴さんが野球を続ける上で大きな支えとなったのは、父・中山秀征さんの言葉でした。
「1度始めたら最後まであきらめるな」という父の教えがあったからこそ、
どんなに厳しい練習や思うような結果が出ない時でも途中で投げ出すことはなかったと語っています。
大学4年の春にようやくベンチ入りできたものの、コロナ禍で大会が中止となるなど思い通りにならないことも多かった日々。
それでも「辞めるという選択肢はありませんでした」と振り返り、父の存在が自分を支えてくれたことを実感している様子。
あきらめない心を育ててくれた父への感謝が、今の中山さんの原動力になっているようです。
エースとしての責任と、腰痛との戦い
高校時代はエースピッチャーとしてチームを牽引していた中山翔貴さんですが、実は腰痛に悩まされていました。
それでもマウンドに立ち続け、仲間の期待に応えようと必死だったといいます。
腰の故障と向き合いながらも「投げ出すことはできなかった」と語る姿に、責任感と仲間への思いがにじみます。
芸能界への憧れが芽生えた瞬間

野球に打ち込む一方で、高校3年生の時に母・白城あやかさんが出演する舞台
『エリザベートTAKARAZUKA20周年スペシャルガラコンサート』を観覧したことが転機となりました。
ステージに立つ母親の姿を目の当たりにし、「スポットライトの当たる世界に強烈に引かれた」と語っています。
しかし、すぐに芸能界を目指したわけではありませんでした。
のちに、野球をやりきった後で新たな挑戦として俳優の道を選んだのだそうです。
出身中学校は「青山学院中等部」

- 青山学院中等部
- 〒150-0002 東京都渋谷区渋谷4丁目4−25
- 偏差値:60~70
中山翔貴さんは、青山学院中等部に内部進学しました。
青山学院中等部での野球部活動とポジション

中山さんは幼少期から野球を続けており、中学時代もその情熱は変わりませんでした。
ポジションは外野手で、高校から投手に転向するまでは外野でプレーしていたのだとか。
中学時代はまだ投手ではなかったため、守備や打撃に力を入れていたようです。
野球を通じて基礎的な技術やチームプレーの大切さを学び、後の高校・大学での活躍につながる土台を築いた時期でした。
勉強と野球の両立に苦労した日々

中学時代は野球に夢中になる一方で、勉強との両立に苦労したこともあったようです。
中山さん自身が「学校ではよく怒られることも多く、成績もあまり良くなかった」と明かしています。
野球部の監督からは「試験で赤点を取ったら試合に出られない」と厳しく言われ、
好きな野球を続けるためには勉強も頑張らなければならないと教えられました。
監督からは「野球部は学校の模範になりなさい」と言われ、
ゴミ拾いや困っている人への親切など、周囲への気遣いも求められたそうです。
こうした指導が中山さんの人格形成に大きく影響し、周囲への思いやりや責任感が育まれたのだとか。
出身小学校は「青山学院初等部」

- 青山学院初等部
- 〒150-0002 東京都渋谷区渋谷4丁目4−25
- 偏差値:58~60
小学1年生から始めた野球との出会い

中山翔貴さんは、青山学院初等部に入学した小学1年生の時から、
地元の少年野球チーム「オール麻布」に所属し、野球を始めています。
家族は4人兄弟で、父はタレントの中山秀征さん、母は元宝塚トップ娘役の白城あやかさんという芸能一家。
そんな環境の中でも、両親は「好きなことを自由にしても良いが、責任と覚悟を持ちなさい」と教えてくれたそうです。
弟たちも野球経験があり、家族全体でスポーツに親しむ家庭だったのだとか。
家族の教えと自主性を育んだ教育方針
中山家の教育方針は「自分で責任を持つなら何をしてもいい」というものでしたが、
その裏には「途中で投げ出さない」「やり抜くこと」という大切な約束がありました。
中山翔貴さんは「自由でありながらも、大事なことはしっかり教えてもらった」と振り返っています。
野球を辞めたくなることもあったものの、両親の教えを胸に自ら乗り越えた経験が、今の自分を支えているといいます。
小学校時代に培われたこの自主性と責任感が、中学・高校、そして俳優としての活動にもつながっているようです。
芸能界への憧れとスポーツの両立
小学生時代から芸能界を身近に感じていた中山翔貴さん。
母・白城あやかさんの舞台や父・中山秀征さんのテレビ出演を間近で見て育ち、「芸能界への憧れもあった」と明かしています。
しかし、当時は野球に夢中で、芸能活動よりもグラウンドでの時間を優先していたそうです。
両親の背中を見て育ち、自然とエンターテインメントの世界にも興味を持つようになったことが、今の多彩な活躍につながっています。
まとめ
中山翔貴さんの学歴と学生時代のエピソードを調査してみました。
学生時代の努力と家族の教えが、彼の誠実さや粘り強さを育んだのだと感じました。
中山翔貴さんの今後のご活躍も楽しみですね。
最後までご覧いただきありがとうございました。