井上想良のwikiプロフィール

- 本名:井上瑞稀(いのうえ・みずき)
- 生年月日:1998年8月12日
- 出身地:大分県
- 身長:178cm
- 血液型:不明(公表されていません)
- 趣味:温泉巡り、ラーメン屋巡り、映画鑑賞
- 特技:テニス(サーブ200km/h)、サッカー、下で鼻を舐めること
井上想良の学歴(高校・大学)
井上想良さんの学歴を調べてみたところ、以下の学校を卒業していることがわかりました。
- 出身大学は「中央大学商学部」
- 出身高校は「大分県立大分舞鶴高等学校」
- 出身中学校は「大分大学教育学部附属中学校」
- 出身小学校は「大分大学教育学部附属小学校」
学生時代のエピソードとあわせて見ていきましょう!
出身大学は「中央大学商学部」

- 中央大学商学部(多摩キャンパス)
- 〒192-0351 東京都八王子市東中野742−1
- 偏差値:65~68(商学部)
井上想良さんは、3歳から始めたテニスの実力を活かし、スポーツ推薦で中央大学商学部に進学しました。
大学進学のきっかけとテニス漬けの日々

高校時代には全国選抜高校テニス大会で団体3位という輝かしい成績を収めており、
大学でも一部リーグの強豪校でテニスに打ち込むことを目指して上京した
という井上想良さん。
大学生活のほとんどを部活動に費やし、アルバイトもせず、テニス一筋の毎日を送っていました。
井上さん自身、
「大学では本当にテニスしかやるつもりなくて、実際にバイトもせず、部活ばっかりの生活をしていました」
と語っています。
学生時代は義務感に突き動かされていたと振り返り、
という思いが強かったと明かしています。
部活動では厳しい練習に耐え、精神的にも体力的にも鍛えられた経験が、今の自分の根本を作ってくれたと語っています。
芸能界との出会いと新たな挑戦

大学時代、井上想良さんの人生に転機が訪れます。
テニス部が契約していたスポーツメーカーのカタログモデルを務めたことがきっかけで、芸能の世界に興味を持つようになりました。
もともと「芸能界はかっこいい世界」という憧れがあった井上さんは、モデルの仕事を通じて芸能界の楽しさを実感します。
その後、部活の監督がワタナベエンターテインメントの養成所の事務員と知り合いだった縁もあり、オーディションを受けることを決意。
大学に通いながらワタナベエンターテインメントカレッジで1年間、演技などを学びました。
両親からは当初猛反対を受けたものの、自分の道を信じて突き進み、芸能活動を本格化させていきます。
大学時代は自分の可能性を広げる大きな転機となったようです。
ワタナベエンターテインメントカレッジは、山田裕貴さんや志尊淳さんも輩出しています。


テニスから芸能界へ、世界が広がった実感

井上想良さんは、学生時代を振り返り
と語っています。
しかし、芸能界に足を踏み入れたことで
「閉ざしていたシャッターが無くなって、僕は世界が広いことを感じました。いろんなものがあり、いろんな人がいるということがこの業界に入ってから思ったことになります」
引用元:1st Generation
と心境の変化を明かしています。
テニスをやめてからは、
義務感から解放されて自分のやりたいことを選択できるようになり、世界が一気に広がった
と実感しているそうです。
今では「自分で選択ができる」という大人の特権を大切にしながら、俳優として新たな道を歩んでいます。
出身高校は「大分県立大分舞鶴高等学校」

- 大分県立大分舞鶴高等学校
- 〒870-0938 大分県大分市今津留1丁目19−1
- 偏差値:68
井上想良さんは、同校に一般受験をして進学しています。
テニス漬けの高校生活と“たこ焼き”のあだ名

井上想良さんの高校時代は、まさにテニス一色の日々でした。
3歳から始めたテニスを本格的に続け、高校でも部活動が生活の中心。
授業中は眠ってしまうことも多く、放課後はすぐにコートへ直行する毎日だった
と語っています。
部活の休みはほとんどなく、恋愛やデートを楽しむ余裕もなかったそうです。
好きな子がいても、会えるのは学校の昼休みくらいで、放課後にデートをすることはなかったのだとか…。
また、
日焼けで真っ黒になり、坊主頭だったことから、周囲からは“たこ焼き”と呼ばれていたというエピソードも披露しています。
井上さん自身、
「スポーツしかしてなかったです!3歳からやっていたテニスが生活の中心だったので、授業中は寝てあとは部活!」
と振り返っており、まさにテニスに全てを捧げた高校時代だったことがうかがえます。
全国大会での活躍とプロへの思い

井上想良さんは、
高校時代に全国選抜高校テニス大会の団体戦で全国3位という輝かしい成績を収めています。
父親がテニススクールを経営していたこともあり、幼少期から英才教育を受けてきた井上さんですが、
プロテニスプレーヤーを目指すことは早い段階で諦めていたと明かしています。
「テニスは本当に厳しい世界なんです。
錦織圭さんや大坂なおみさんのようなトップ選手は中学・高校生の時から海外に行っています。
だから、日本の高校に進学する段階でプロになろうとは思っていませんでした」
引用元:ENCOUNT
と語っています。
高校時代は、全国レベルの大会で結果を残しつつも、現実的な進路を見据えていた井上さん。
テニスを通じて得た経験が、後の人生の大きな糧となったようです。
地元・大分での思い出と母校への愛着

井上想良さんは大分県出身で、高校時代を地元で過ごしました。
映画『青めぐる青』の撮影で母校を訪れた際、
と語っており、地元や母校への強い愛着を感じさせます。
撮影では、当時の思い出がよみがえり、懐かしさとともに新たな気持ちで地元の風景を見つめ直したそうです。
高校時代は、海沿いを自転車で走ることはなかったものの、撮影を通じて新しい地元の魅力を発見できたと振り返っています。
井上さんにとって、地元・大分での高校生活は、今も心に残る大切な時間だったようです。
短編映画『青めぐる青』はYouTubeで観ることが出来ます↓

出身中学校は「大分大学教育学部附属中学校」

- 大分大学教育学部附属中学校
- 〒870-0819 大分県大分市王子新町1−1
- 偏差値:61
井上想良さんは出身中学校を公表していませんが、
大会に出場した記録から、こちらの学校に在籍したと推測されています。
文武両道の日々と「附属中生」としての自覚

大分大学教育学部附属中学校では、学業とテニスの両立に励む毎日を送っていました。
同校は国立校として高い教育水準を誇り、井上さん自身も「勉強とスポーツのバランスを意識していた」と振り返ります。
授業中は集中して学び、放課後はテニスコートで汗を流す生活。
当時を振り返り
と語る井上さん。
厳しい練習に耐えながらも、常に前向きな姿勢を貫いていた様子がうかがえます。
この時期の経験が、後に全国大会で結果を残す土台となったようです。
世界大会出場がもたらした視野の広がり

中学2年生で出場した「アメリカンカップ」でのダブルス準優勝は、井上想良さんにとって転機となりました。
国際大会の経験を通じて「テニスの奥深さと世界の広さを実感した」
と語る井上さん。
当時から既にサーブ速度200km/hを誇る実力派として注目を集めていました。
中学時代の国際経験が、芸能界進出後も「世界を広げる」という姿勢の原点となっているようです。
出身小学校は「大分大学教育学部附属小学校」

- 大分大学教育学部附属小学校
- 〒870-0819 大分県大分市王子新町1−1
井上想良さんは国立の大分大学教育学部附属小学校に在籍。
同校は教育熱心な環境で知られ、学業とテニスの両立に励んでいました。
テニス英才教育のスタートと父の存在

井上想良さんが3歳でテニスを始めた背景には、テニススクールを経営する父親の存在がありました。
幼少期からラケットを握り、フェデラー選手に憧れる日々。
小学校時代はすでに本格的なトレーニングを受け、地元の大会で頭角を現し始めます。
「フェデラーのプレーに心を奪われ、プロを目指すようになった」
とのちに語るように、この時期からテニスに没頭する基礎が築かれました。
父親の指導のもと、技術だけでなくメンタル面も鍛えられたといい、厳しい練習に耐える精神力が育まれたようです。
小学生ながらプロ顔負けの練習量をこなし、地元では“小さなフェデラー”と呼ばれていたのだとか…。
早熟な才能と初めての挫折

小学生時代から全国規模の大会に出場していた井上想良さんですが、
早くもこの時期に「プロの厳しさ」を実感したエピソードが存在します。
父親の指導方針は「楽しむことより結果重視」だったとされ、ミスをすれば厳しく叱責されることも。
あるインタビューでは
「幼い頃から常にトップを目指す環境で、プレッシャーと向き合っていた」
と間接的に示唆される内容が。
それでもラケットを握り続けたのは、フェデラー選手のような「人を感動させるプレー」への憧れが原動力だったようです。
まとめ
井上想良さんの学歴と学生時代のエピソードを調査してみました。
テニスの厳しい練習で、忍耐力と向上心が培われた学生時代だったことがわかりました!
井上想良さんの今後のご活躍も楽しみですね。
最後までご覧いただきありがとうございました。
「頑張らないと大学に行けない。スポーツ推薦で入るんだったらもうやらないと…」