俳優としてご活躍されている宮沢氷魚さん。
この記事では、宮沢氷魚さんの出身大学や高校などの学歴について調査してまとめていきます。


宮沢氷魚のwikiプロフィール

- 本名:宮沢氷魚(みやざわ ひお)
- 生年月日:1994年4月24日
- 出身地:アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ
- 身長:180cm
- 血液型:A型
- 趣味:釣り、写真撮影
- 特技:英語(ネイティブレベル)、野球
元THE BOOMのボーカル・宮沢和史さん、母はタレントの光岡ディオンさんです。
2024年1月に女優の黒島結菜さんとの事実婚を公表しており、同年7月には第一子が誕生しています。

宮沢氷魚の学歴(高校・大学)
宮沢氷魚さんの学歴を調べてみたところ、以下の学校を卒業していることがわかりました。
- 出身大学は「カリフォルニア大学→国際基督教大学」
- 出身高校は「セント・メリーズ・インターナショナルスクール高等部」
- 出身中学は「セント・メリーズ・インターナショナルスクール中等部」
- 出身小学校は「セント・メリーズ・インターナショナルスクール小学部」
学生時代のエピソードとあわせて見ていきましょう!
出身大学は「カリフォルニア大学→国際基督教大学」

- カリフォルニア大学サンタクルーズ校
- 1156 High St, Santa Cruz, CA 95064 アメリカ合衆国
- 偏差値:
宮沢氷魚さんは、高校卒業後にカリフォルニア大学サンタクルーズ校へ進学しました。
サンフランシスコ出身という自身のルーツや、英語力をさらに伸ばしたいという思いからアメリカの大学を選んだそうです。
アメリカ留学で得た自立心と転機

親元を離れ、18歳で初めて一人暮らしを経験したことで、「これからどう生きていくか」を真剣に考えるようになったと語っています。
アメリカの大学生活は非常に楽しかったものの、入学よりも卒業のほうが難しい環境で、
半年先や1年後を見据えて授業を選ぶなど計画的に過ごしていたとのこと。
自分の考えをしっかり持たないと周囲に流されてしまうため、積極的に自分を表現する力も身についたと振り返っています。
芸能界への挑戦と家族への思い

アメリカ留学中、日本の芸能界への思いが強くなり、大学1年生のときにカリフォルニアから芸能事務所へ履歴書を送った宮沢さん。
母親には最終面接の段階で報告し、父親には事務所への入所と契約が決まってから伝えたそうです。
「バイト感覚だと思われていた」と語る一方、父親には絶対反対されると思い、内緒で1社だけ受けて不合格なら諦めるつもりだったのだとか…。
結果、合格し、カリフォルニア大学を中退して国際基督教大学(ICU)に編入します。

- 国際基督教大学(ICU)
- 〒181-8585 東京都三鷹市大沢3丁目10−2
- 偏差値:64(人間環境学部)
ICUでは環境学を専攻し、芸能活動と学業を両立させながら、演技レッスンにも励んでいました。
モデルとして「メンズノンノ」グランプリを獲得し、専属モデルデビューも果たしています。
学業と芸能活動の両立、そして卒論への情熱

国際基督教大学在学中は、芸能活動が忙しい中でも学業を疎かにせず、無事に留年することなく卒業しています。
卒業論文では「東京都内の川の環境変化」をテーマに、
江戸時代から現代までの川の歴史や社会への影響を、英語で約100ページにわたって執筆したとのこと。
「川の研究は全然苦じゃなかった。楽しかった」と本人も語っており、好きなことに夢中になれるタイプなのだそうです。
大学3年からはモデル活動も本格化し、「学生時代にしかできない時間の使い方をもっとすればよかった」と振り返る場面も。
忙しくても体力を使って全力で楽しむことが大切だと、後輩たちにエールを送っています。
出身高校は「セント・メリーズ・インターナショナルスクール高等部」

- セント・メリーズ・インターナショナルスクール高等部
- 〒158-8668 東京都世田谷区瀬田1丁目6−19
カトリック教会キリスト教教育修士会によって設立・運営されており、
幼稚園、小学校、中学校、高等学校の課程がある一貫校の男子校です。
入学条件が非常に厳しく、親の年収が3000万以上で、学力は偏差値70以上、そのうえ英会話ができないと入れないと言われています。
野球に打ち込んだ日々と挫折

高校時代の宮沢さんは、野球に情熱を注いでいました。
プロ野球選手を本気で目指していたものの、次第に自分の限界を感じるようになり、夢を断念した時期もあったそうです。
目標を見失い、悩んだこともあったとのこと。
勉強面では、もともと勉強が好きではなかったため、あまり力を入れていなかったと語っています。
ただ、心配性な性格からテスト前には早めに準備し、結果的には平均点以上を取ることが多かったのだとか。
幼稚園からインターナショナルスクールに通っていたため、英語力には自信があったそうです。
高校時代の「モテ期」と自信の変化

宮沢氷魚さんは、高校時代に大きな転機を迎えたそうです。
もともと人見知りが激しく、人前で話すことも苦手だったと語っています。
しかし、高校2年生のとき、思いがけず「モテ期」が到来したことで、性格や自信に変化が生まれたのだとか。
男子校に通っていたため、学校内には女子がいなかったものの、
隣接する女子校の生徒たちが「氷魚くんだよね?」と声をかけてきたり、
「これからカラオケに行かない?」と誘われることもあったそうです。
会ったこともない女子高生から声をかけられ、カラオケに行くなど、まるで有名人のような存在感を感じた瞬間でした。
この経験が、殻を破る大きなきっかけとなり、以前よりも人前に出ることへの抵抗が減ったと振り返っています。
本人いわく、「それがかなりの自信になりました」とのこと。
出身中学校は「セント・メリーズ・インターナショナルスクール中等部」

- セント・メリーズ・インターナショナルスクール中等部
- 〒158-8668 東京都世田谷区瀬田1丁目6−19
宮沢氷魚さんは中学校も、幼少期から通っていた男子校のセント・メリーズ・インターナショナルスクール中等部に進学しました。
ここは系列の高校へ内部進学が可能な難関校で、英語力はネイティブレベルに達しています。
多国籍の生徒が集まる環境で学んだことで、多様な価値観に触れられたことが彼の人間形成に大きく寄与したようです。
両親は「学業をしっかりやれば好きなことを自由にやってよい」という教育方針で、のびのびと育てられたと本人も話しています。
中学時代の野球での挫折と再起

宮沢氷魚さんは中学校時代、シニアリーグの「世田谷ボーイズ」に所属し、野球に熱中していました。
小学校時代は野球の実力もあり、プロを目指せると自信を持っていたそうです。
しかし、中学に進んでからは、より上手な選手が次々と入ってきて自分の成績が振るわなくなり、レギュラーの座を奪われてしまいました。
これが初めての大きな挫折で、一時はチームを辞めることも考えたのだとか…。
そんな中、プロ野球選手・福田秀平選手の父親であり、チームのコーチを務める徹さんが「お前は伸びるから」と励まし、
マンツーマンで指導してくれたことが大きな支えになりました。
その結果、中学3年生の時にはレギュラーに復帰し、「本当のチームワークとは何か」を実感したと語っています。
父のライブがきっかけで芽生えた芸能界への憧れ

中学3年生の頃、宮沢氷魚さんは父親である宮沢和史さんのライブに初めて足を運びました。
そこで父のステージパフォーマンスを間近に見て、「やっぱり格好いいな」と強く感じたのだそうです。
観客の中には感動で涙を流す人もいて、その熱気や感動の渦に触れたことが、彼の心に深く響きました。
この体験がきっかけとなり、漠然と芸能界に興味を持つようになったと本人は語っています。
父の背中を見て育ったことで、芸能の世界に自分も関わりたいという気持ちが芽生えたのだとか…。
出身小学校は「セント・メリーズ・インターナショナルスクール小学部」

- セントメリーズインターナショナルスクール
- 〒158-8668 東京都世田谷区瀬田1丁目6−19
宮沢氷魚さんは、小学校時代を東京都世田谷区のセントメリーズインターナショナルスクールで過ごしました。
インターナショナルスクールでの多様な出会いと居場所

生まれはアメリカ・サンフランシスコですが、日本に戻ると「外国人」、アメリカでは「日本人」と呼ばれ、どこにも完全な居場所がないと感じていたそうです。
母親が日本とアメリカのハーフで、自身はクオーターという複雑なルーツもあり、アイデンティティに悩むことも多かったのだとか…。
そんな中、さまざまな国籍や文化を持つ子どもたちが集まるインターナショナルスクールは、彼にとって心地よいオアシスだったと振り返っています。
幼い頃は人見知りだったものの、多様な環境で育った経験が、現在の柔軟な思考や国際感覚につながっているのかもしれません。
野球との出会いと夢中になった日々

小学4年生のとき、横浜スタジアムでプロ野球選手・鈴木尚典選手のサヨナラホームランを目の当たりにしたことがきっかけで、野球に興味を持ち始めた宮沢さん。
すぐに軟式野球チームに入団し、みるみるうちに上達してレギュラーにも選ばれるようになりました。
「プロを目指せるかもしれない」と思うほど、野球に夢中だった時期です。
また、吹奏楽部にも所属し、トロンボーンを担当していたことも。
両親が芸能人であることから「芸能界には興味がなかった」と語り、当時は勉強よりもスポーツや音楽に力を入れていたようです。
自由な校風と家庭の教育方針も、のびのびとした成長を後押ししたのでしょう。
体験入学と日本の小学校での非日常体験

宮沢氷魚さんは、インターナショナルスクールに通う一方で、
父・宮沢和史さんの母校である地方の公立小学校にも1~2週間ほど体験入学した経験があります。
日本の小学校で他の生徒と同じように机に向かい、給食を食べるという日常は、彼にとっては「ものすごく非日常」であり、大変だったと振り返っています。
両親は「世界中にはいろんな人がいることを子どもの頃から体感してほしい」という思いで、こうした多様な環境を経験させたそうです。
名前に込められた思いと幼少期のエピソード

「氷魚(ひお)」という名前は本名で、
釣り好きの父親が「どんな環境の変化でも生きていけるように」と、琵琶湖に生息する鮎の稚魚「氷魚」にちなんで名付けたものです。
小学校時代は「冷凍マグロくん」といじられたこともあり、当時は自分の名前があまり好きではなかったと明かしています。
しかし今では「とても気に入っている」と語る宮沢さん。
幼い頃の複雑な心境や成長の軌跡が、今の芯の強さにつながっているのでしょう。
まとめ
宮沢氷魚さんの学歴と学生時代のエピソードを調査してみました。
多様な経験と挫折を乗り越え、芯の強さと柔軟性を持つ人物像が浮かびます。
宮沢氷魚さんの今後のご活躍も楽しみですね。
最後までご覧いただきありがとうございました。


